いよいよ、2025年に「EXPO2025 大阪・関西万博」が始まります。
・・・・ん?始まるのか?いや、そもそもやる必要ある?税金の無駄じゃね?がっつり絡んでる吉本興業もいま大変そうだし、別に中止でよくね?万博に税金使うより、震災復興はじめ有意義な使い道あるしさぁ・・・な〜んてことを、世間では言われイマイチ盛り上がりに欠けるわよネ。
ただ、令和の大阪万博は盛り上がりにかけますが、昭和45年(1970)に行われた、「日本万国博覧会」こと通称「大阪万博」は凄かった!!
もちろん筆者が生まれる前の出来事のため、リアルタイムでは知らないものの大阪万博は永遠の憧れ♡大阪万博がキッカケで広まったものや、活躍した人も多く、昭和の歴史を知る上で欠かせないイベントなのよネ。
今回はこんな時だからこそ、筆者が所持する当時の雑誌やパンフレットを元に大阪万博から広まっていったものや活躍した芸術家などを讃えていきたいと思うわ。
⬇万博記念公園にある「EXPO’70パビリオン」と「太陽の塔」内部見学についてはコチラをどーぞ☆
- 【昭和の大阪万博】歴史と概要
- 【昭和の歴史】大阪万博から広がったものたち。
- 【1970年大阪万博から広がったもの】動く歩道
- 【1970年大阪万博から広がったもの】エアドーム
- 【1970年大阪万博から広がったもの】ワイヤレスフォン(携帯電話)
- 【1970年大阪万博から広がったもの】テレビ電話
- 【1970年大阪万博から広がったもの】ローカル・エリア・ネットワーク (LAN)
- 【1970年大阪万博から広がったもの】モノレール (日本跨座式)
- 【1970年大阪万博から広がったもの】ファーストフード、ファミリーレストラン
- 【1970年大阪万博から広がったもの】サインシステム・ピクトグラム
- 【1970年大阪万博から広がったもの】缶コーヒー
- 【1970年大阪万博から広がったもの】ブルガリアヨーグルト
- 【昭和の大阪万博】アーティスト達の素晴らしき活躍
- 【どうなる!?大阪万博】昭和の大阪万博は凄かったぞっ!
【昭和の大阪万博】歴史と概要
大阪万博から広まったものや人を讃える前に、まずは昭和の大阪万博の歴史や概要を少し振り返ってみましょ!
「日本万国博覧会」通称「大阪万博」は、大阪市吹田市の千里丘陵で昭和45年(1970)3月15日〜9月13日までの183日間開催された日本初の国際博覧会。
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、戦後の高度経済成長を遂げ、米国に次ぐ経済大国第2位になった日本の象徴的なイベントとして開催されたわ。昭和39年(1964)の東京オリンピック以来の国家プロジェクトということもあり、国家関連事業として6500億円ほどを使い、道路や鉄道を始めとする大規模開発・整備が進められていったの。
まぁ〜日本が元気でお金もあった時代だからこそ、大阪万博は開催され、無事成功を収めたのよね・・・昭和の大阪万博は、万博初の黒字を達成してますが、令和版はどうなることやら・・・
ちなみに、開催地の候補として、大阪南港・神戸港・琵琶湖の埋め立て地なども上がっていたそうなんだけど、それらと比較して千里丘陵は大阪中心部からも近く、名神高速道路が開通していることと、西側ではニュータウンの先駆けである、千里ニュータウンの開発が進んでいたことから評価され選ばれたと言われているわ。
昭和45年(1970)3月15日に幕を開けた大阪万博は、日本初開催の万博というだけでなく、アジアで初めて開催された国際博覧会だったたの。
そのため世界中から注目を集め、なんと期間中の総入場者数は6421万8770人、そのうち170万人が外国人だったのだとか!(最多入場者数は9月5日の土曜日で83万6000人!)
いまほど海外旅行が簡単ではなかった時代、庶民からしたら外国人は非常に珍しい存在で、万博会場で観光客にサインをもらった、なんて人もいたそうよ。
そして、この総入場者数は2010年の上海万博まで、万国博覧会史上最多の入場者数だったってんだから凄いわよネ。
そして、来場した外国人の多さだけでなく、76カ国、4国際機関、1政庁(香港)、アメリカ3州、カナダ3州、アメリカ2都市・2企業、ドイツ1都市が海外から参加しているわ。
海外からだけでなく、国内からも32団体(日本政府、日本万国博覧会地方公共団体出展準備委員会、2公共企業体、28民間企業等)が参加しているの。
令和版の万博は、参加する国や企業が少ない、な〜んてニュースをみるけどもねぇ・・・
敷地もとても広く、甲子園球場約83個分にあたる330haもの面積が使われているわ。
これだけ広いんですもの、迷子数は大人 12万7453人・子ども 4万8190人以上もいたのだとか!ん〜大人の方が多いってのも驚きネ。
そして、迷子だけでなく、届けられた落とし物の数は5万4000件を超え、拾得金の合計は4892万4577円もあったそう。
その他にも大阪万博では様々な記録(?)を残しており、会場内で結婚したアベックが55組(会場内に結婚式場が設けられていた)、静岡県から来た妊婦さんが万博で出産したという驚きの記録も残っているわ。
【昭和の歴史】大阪万博から広がったものたち。
様々な歴史と記録を残した大阪万博、ここから普及し広がっていったものがたくさんあるの。以下主なものをまとめてみたわ。
・温水洗浄便座 ・動く歩道 ・エアドーム ・ワイヤレスフォン(携帯電話) ・コンピュータ・ハンド・ゲーム(クレーンゲーム) ・テレビ電話 ・ローカル・エリア・ネットワーク (LAN) ・モノレール (日本跨座式) ・サインシステム ・ピクトグラム ・電波時計 ・電気自動車(EV車) ・ファーストフード、ファミリーレストラン ・缶コーヒー ・ブルガリアヨーグルト
探してみたらまだまだあるのかもしれないけど、ざっと調べただけでも14個もあったわ!
それぞれ筆者の持っている資料と共に、一部をご紹介していくわネ。
【1970年大阪万博から広がったもの】動く歩道
まずご紹介する大阪万博キッカケで普及したものは、いまではお馴染み動く歩道よ。
動く歩道が実際に作られたのは、1893年(明治26年)にシカゴで開かれた「コロンビア博覧会」。その後、海外では地下鉄などで導入されるようになり、日本では大阪万博をキッカケに普及していったの。
ちなみに動く歩道は、昭和42年(1967)に大阪市の阪急梅田駅に日本で初めて設置されたと言われているわ。以前筆者が記事にまとめた、昭和30年(1955)に開園したレジャー施設「船橋ヘルスセンター」にも、『ラバレーター』なる名前で動く歩道が園内に設置されていたのだけど、梅田のほうが先なようね。⬇
【1970年大阪万博から広がったもの】エアドーム
続いてご紹介するのは、月の石の展示が大人気だった、アメリカ館の建築で用いられたエアドームよ。
上の写真がアメリカ館なんだけど、どっかで見たことない?
そう、昭和63年(1988)3月18日に開場した、東京ドーム!アメリカ館の工法を元に東京ドームは作られているのよ。
エアドームとは空気膜構造屋根の建築のことで、薄い布のような素材で出来た屋根を、空気でふくらませる『テント屋根』のことを指しているわ。
現在はドーム型のスタジアムなどでよく使用されていて、この工法は日本の会社が作っているのヨ!
【1970年大阪万博から広がったもの】ワイヤレスフォン(携帯電話)
現在の我々の生活になくてはならない必需品・携帯電話も大阪万博から広がっていったもの。
携帯電話は展示されているでけでなく、実際に会場にいる人同士や日本国内であれば通話ができるようになっていたみたい。
写真を見てみると、ワイヤレスの電話にはストラップまでついていて、まさに携帯電話の原型ともいえるつくりになっているわ。
当時はダイヤル式の黒電話が一般的で、プッシュホンですら前年の昭和44年(1969)に登場したばかり。ポップで便利な携帯電話は、人々を驚かせ近未来を想像したことでしょうネ。
【1970年大阪万博から広がったもの】テレビ電話
いまやzoomで仕事や面接もできてしまう世の中。そんな便利な世の中に導いたテレビ電話も大阪万博で登場しているわ。
大阪万博で初めてテレビ電話を大々的に実用化したそうで、筆者が所持する当時の「アサヒグラフ」には、”迷子探しのときには、親子の対面をさせてくれる。”と記載されていたわ。ちなみにお値段は一台70万円(当時)だったのだとか!
その他には「黄河パビリオン」でも、テレビ電話は展示されていたみたい。
【1970年大阪万博から広がったもの】ローカル・エリア・ネットワーク (LAN)
テレビ電話をはじめ、大阪万博ではローカル・エリア・ネットワーク(LAN)を使った、大規模なコンピューターシステムを導入していたわ。
会場の頭脳ともいうべき「電気計算機室」には巨大なコンピューターを据つけ、会場の隅々に設置された混雑検知器や誘導標識、テレビなどと結びつけ、会場の混雑誘導や迷子管理、観客サービスなどをおこなっていたそう。
大阪万博の「電気計算機室」で働いていた技術者様たちは現在は高齢者だけど、テクノロジーに置いてけぼりの筆者よりも、絶対にしっかり現代のメカにもついていけているのだろうなぁ・・・
【1970年大阪万博から広がったもの】モノレール (日本跨座式)
続いてご紹介する大阪万博キッカケで普及したものは、みんな大好きモノレールよ。
モノレールは万博会場を囲むように一周していて、5つのゲートから入場する観客を早く安全に目的地に運ぶために設置されたの。なんでも会場内を15分で一周できたのだとか。
日本初のモノレールは、昭和32年(1952)に設置された「東京都懸垂電車上野懸垂線」こと今はなき「上野動物園モノレール」なんだけど、こちらは懸垂式のもの。
大阪万博で使用されたのは『日本跨座式』というタイプのもので、初めて大阪万博で使用されたわ。日本跨座式のモノレールは現在、舞浜リゾートライン・多摩都市モノレール・大阪モノレール・北九州高速鉄道・沖縄都市モノレールで使われているわ。
そして鉄道関連でもうひとつ!工事が進まず開業が伸びに伸びてしまっている、リニアモーターカーも万博から広まったわ。
といっても、当時実際に乗車できたわけではなく、スピードに挑む未来の技術の一つとして、日本館にリニアモーターカーの模型が登場したの。
もうねぇ、開発から50年以上たち我々が夢の高速鉄道に乗れるのももうすぐなわけですよ。一日も早い開業を願ってやまないわ。
【1970年大阪万博から広がったもの】ファーストフード、ファミリーレストラン
そして大阪万博は、現代の食生活を豊かにするキッカケを作ったといっても過言ではないわ。
1970年代はドムドムバーガーや日本マクドナルド、ミスタードーナツなど馴染み深いファーストフード店が次々に開店していった時期。日本初のハンバーガーチェーンである「ドムドムバーガー」に至っては、万博開始の1ヶ月前である昭和45年(1970)2月に町田に第1号店を開業しているわ。
そんな中、大阪万博では「ケンタッキー・フライド・チキン」が実験店舗として日本で始めて設置されたの。その後7月には「日本ケンタッキーフライドチキン」が設置され、11月には愛知県名古屋市郊外に1号店が出店されたのよ。
今あの美味しいチキンが食べられるのは、大阪万博のおかげと言っても過言ではないわよネ!
⬇マクドナルドの歴史とともに日本のファーストフードの歴史もチェックできるよ!⬇
ファーストフードだけでなく、アメリカゾーンには外国店扱いで「ロイヤル」がステーキハウスを出店。(ロイヤルは昭和25年に福岡県で創業した日本の企業。機内食や給食事業を行っていた。)
実はこのことがキッカケで、あの美味しいファミレスの出店に繋がっているの!
そう、あの美味しいファミレスとは、みんな大好き「ロイヤルホスト」のこと!その後ロイヤルは大阪万博での実績が評価され、昭和46年(1971)に北九州に「ロイヤルホスト」の1号店を開店させているわ。
ファミレスの中でロイホが一番好きな筆者は、開店に繋がった大阪万博には感謝しかないわよ〜。
【1970年大阪万博から広がったもの】サインシステム・ピクトグラム
そして大阪万博で普及したもので、忘れてはならないのがサインシステムよ。
ピクトグラムは昭和39年(1964)10月10日に開催された東京オリンピックでも使用されていたのだけど、大阪万博ではより分かりやすい標識としてサインシステムも併せて導入されたわ。
現在では鉄道駅などでも多く使われているサインシステムだけど、大阪万博翌年の昭和46年(1971)に、阪神電鉄梅田駅の改装工事で導入されたことが、鉄道事業者における最初の事例だと言われているわ。
【1970年大阪万博から広がったもの】缶コーヒー
UCC ミルクコーヒー250g缶×30本入×(2ケース)
そして今では当たり前のように購入できる缶コーヒーも、大阪万博から広まったもののひとつ。
昭和34年(1959)に外山食品から、日本初の缶コーヒー「ダイヤモンド缶入りコーヒー」が発売され、その後も明治から「明治コーヒードリンクス」が発売されたわ。ただ、一般にはあまり広まらなかったそうなの。
そんな中、万博開催前年の昭和44年(1969)に上島珈琲本社(現UCC上島珈琲)が、「UCCコーヒー ミルク入り」を発売。それまで缶コーヒーはブラックコーヒーのみだったんだけど、瓶入りのイメージが強かったミルク入りのコーヒーは、ナウなヤングを中心に人気になっていったわ。
そして大阪万博の会場で缶コーヒーを手にした人たちから流行し、多くの人々が缶コーヒーを飲むキッカケになったんですって!
【1970年大阪万博から広がったもの】ブルガリアヨーグルト
明治 ブルガリアヨーグルトLB81 プレーン【クール便】(400g×6コ) 特定保健用食品
そしてもうひとつ、いまでは当たり前のように食べられているブルガリアヨーグルトも大阪万博がキッカケ。
大阪万博の「ブルガリア館」で、明治の幹部社員さんが本場のプレーンヨーグルトを食べたのがキッカケで、ブルガリアヨーグルトは開発されることとなったわ。
それまで日本で販売されているヨーグルトはゼリー加工が施されたもので、純粋プレーンなヨーグルトはブルガリアヨーグルトが日本初。万博翌年の昭和46年(1971)に日本初のプレーンヨーグルトとして「明治プレーンヨーグルト」を発売したわ。
当初はブルガリアから国名使用を拒否されていたのだけど、発売翌年には使用許可を所得、「明治ブルガリアヨーグルト」に名称変更して発売されたのよ。
いま我々が美味しいプレーンヨーグルトを食べられるのは、大阪万博と明治社員さんの努力の結晶だと思うと、有り難いったらないわよネ!
【昭和の大阪万博】アーティスト達の素晴らしき活躍
そして忘れてはならないのが、活躍した芸術家達の多さ!中には大阪万博がキッカケで飛躍した若手芸術家も多くいたわ。
その分野で日本を代表するような方々ばかりなので、名前をあげればキリがないため、一部の先生方を作品と共に紹介するわネ。
【大阪万博の芸術家】岡本太郎【太陽の塔】
まず、大阪万博の芸術家といって忘れてはならないのが、シンボル・太陽の塔を制作した岡本太郎先生よネ。
最後までテーマ館の展示プロデューサーが決まらず人選に難航する中、当時、通産省(現:経済産業省)の官僚で大阪万博の総合プロデュースを任されていた堺屋太一が、沖縄行きの船で対面した岡本氏に強い印象を受け、通産省に猛プッシュしたことで起用が実現されたのだそう。
ただ、当時は岡本氏を知っている人がいなかったらしく、父である画家で漫画家の岡本一平氏の作品を紹介し、最終的に「破天荒な人がいいだろう」ということで合意を得られたんですって。
結果、50年以上経っても愛されるアイコンを造ったのですもの、岡本太郎先生で大正解だったわよネ!
太陽の塔は2018年3月から内部の一般公開が行われているので、ぜひ見学に行くのをオススメするわ。
筆者も一度訪れたのだけど、ホンットに本当に凄かった!中に入った瞬間、鳥肌が立つぐらいの異空感で不思議な感覚と感動に襲われるわ。下階から上階に階段で進んでゆくのだけど、細かい細工が多くて目が離せない展示となっているの。
見学は事前予約制で、下記のサイトから受付しているわ。⬇
筆者が見学した2018年12月時点は、撮影機器などの落下の危険性を考慮して内部の撮影ができなかったのだけど、2023年3月2日から塔内撮影用のスマホケースのレンタルを¥500で開始。すべての見学ルートで撮影ができるようになったんですって!!!
⬇筆者が見学した際の旅行記です。よかったら参考にして下さい☆⬇
⬇岡本太郎先生についてはこちらもオススメ☆⬇
【大阪万博の芸術家】大高猛【ロゴデザイン】
そして大阪万博のロゴマークをデザインしたのが、グラフィックデザイナーの大高猛氏。
シンボルマークが決定するまでには紆余曲折あったようで、昭和41年(1966)に行われたコンペの際は、別のデザイナーの作品が選ばれていたそう。ただその後の常任理事会で万博協会会長からダメ出しを受け、2回目のコンペを実施し大高猛氏の桜モチーフのロゴに決定したわ。
でもこのロゴ、とっても日本らしく美しいデザインで素敵よネ。
日清食品 カップヌードル レギュラー 78gx20個
ちなみに大高猛氏は、昭和46年(1971)9月18日に発売された「カップヌードル」のパッケージデザインでお馴染み。
発売当時から変わらぬデザインで今も愛されるカップヌードル、これが変わったら多分筆者は号泣するわよ。ちなみに上下に施された通称キャタピラは、安藤百福氏がデパートで見かけた洋皿の柄が原点らしいわ。しかもこの模様、商標登録されているそうよ。
【大阪万博の芸術家】黒川紀章【タカラ・ビューティリオン】
そしてモダニズム建築の旗手・黒川紀章氏も大阪万博のパビリオン建設に携わっていたわ。
設計したのはタカラグループのパビリオン「タカラ・ビューティリオン」と「空中テーマ館 住宅カプセル」よ。
「タカラ・ビューティリオン」は上下左右にツノを生やしたようなパイプと、ステンレスのカプセルが結びついたようなデザインで、十字型のユニットを繋いでいけばいくらでも増築できるのが特徴。これは黒川紀章氏の『未来の都市構想は常に新陳代謝していかなければならない。』という考えから設計されたもの。
ん?これって・・・・
そうです、惜しまれつつも2022年に解体された「中銀カプセルタワービル」に繋がってゆくのです。
元々「中銀カプセルタワービル」が造られた経緯として、施工主が「タカラ・ビューティリオン」や「空中テーマ館」に感銘し、新しく建築予定だった銀座8丁目のマンション計画を黒川氏に依頼したことがキッカケ。「中銀カプセルタワービル」はその後、昭和47年(1972)に竣工されたわ。
筆者は「中銀カプセルタワービル」が大好きなので、大阪万博から繋がっていると思うと胸アツなのよネ♡
⬇「中銀カプセルタワービル」に関してはこちらもどーぞ!⬇
【大阪万博の芸術家】横尾忠則【せんい館】
そして画家でイラストレーターの横尾忠則先生も、日本繊維館協力会のパビリオン「せんい館」の建築デザインを担当しているわ。
建物のモチーフとして、創造的な若さあふれる環境づくりを目指し、環境芸術的なものとして企画されたのだそう。実際横尾忠則先生も万博時点で、まだ34歳とお若かったのよね。
中央にあるドームの周りには、建築工事用の足場が組まれ、作業服姿の人形が8対取り付けられているわ。これは建築中のある時点をストップさせた状態を表現していて、終わりない美への追求と、未来への可能性を表現し、展示館と観客の対話をより密着させるための構想だったのだとか。
ただ、横尾先生は、「このパビリオンを芝居の書割(かきわ)りか張りぼてのようなものにしたかった」と仰っていて、当時は権力や体制側の万博での仕事に後ろめたさを感じていたそうね。
【大阪万博の芸術家】田中千代【コスチューム統括】
そして大阪万博のすべての制服を統括したのが、日本の近代洋裁教育、服飾デザインの礎を作った御大・田中千代先生。
当時すでに田中千代学園理事長・学園長でもあり、香淳皇后や上皇后美智子様の衣装デザインを行っていた田中先生。その実績と実力から大阪万博のデザイン顧問のひとりとして選出されたわ。
昭和42年(1967)の「モントリオール万博」に視察に行った際、田中先生は美的統一感の必要性を強く感じたそう。その経験から大阪万博では、職員、ガードマン、音楽隊、清掃、ビルメンテナンスにいたるまで、表舞台と裏舞台で関わる人全ての制服に関する助言をしたと言われているわ。
田中千代先生がいなかったら、統一感のある美しいコスチュームは生まれなかったのネ!
【大阪万博の芸術家】コシノジュンコ【コスチュームデザイン】
日本万国博覧会 パビリオン制服図鑑—EXPO’70 GIRLS COLLECTION (らんぷの本)
(⬆左上のコ写真がコシノジュンコ先生がデザインした「生活産業館」のコスチューム。)
そして大阪万博のコスチュームデザインで忘れてはならないのが、ファッションデザイナーのコシノジュンコ先生。
まぁ〜コシノジュンコ先生は言わずと知れた天才で、文化服装学園在学中の19歳の時に最年少で装苑賞を取ったりと、日本のファッション業界に多くの影響を与えた人物よ。おまけに大阪万博時は28歳と、万博のデザイナー陣の中でも最年少だったのよ!
コシノジュンコ先生は、ペプシコーラ館・生活産業館・タカラ・ビューティリオンの3つのパビリオンのコスチュームデザインを担当したわ。どれも当時のトレンドを押さえつつ、機能的なデザインになっていて、いつの時代に見てもお洒落で機能的なデザインなのよネ♡
「従来の事務服的、作業服的なイメージから脱却し、働いているときの服にも夢があっていい。」と先生は仰っており、従来通りの作業的なイメージから、ファッションという夢を大阪万博のコスチュームに詰め込んでいるわ。
コシノジュンコ先生のデザイン論があったからこそ、以後続くコスチュームデザインの考え方に繋がっていったのネ!
【どうなる!?大阪万博】昭和の大阪万博は凄かったぞっ!
はい、今回は令和版の大阪万博に不安が募る中、昭和45年(1970)の大阪万博は凄かった!ということを実感するため、大阪万博から広がっていったものや、活躍していった芸術家たちをご紹介したわ。
個人的にはまだまだ語り足りないのだけど、ざっと見ただけでこれだけのものが広まり、多くの人が活躍をしたのだと思うと胸アツじゃない?
まぁ〜令和版も中止にはならないだろうから、せめて昭和版のように多くの人に喜ばれるものを造ってほしいものよネ。個人的には昭和の大阪万博を完全再現してくれたら嬉しいのだけどネ。
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