東京スカイツリーのお膝元、東京都墨田区向島。かつてこの地には、戦後に人気をはくした赤線地帯「鳩の街」があった。
元々「鳩の街」は、ここから1Kmほど離れた「玉ノ井」の業者が、戦争で被災し移動してきたことで、戦後に発展した新しい色街なの。そのためか、赤線時代の遺構であるカフェー建築がいくばくか残っており、今でもその姿を愛でることができるわ。
昭和33年(1958)の売春防止法が実施されるまで、赤線として営業していた「鳩の街」。現在は昭和レトロな町並みが残る「鳩の街通り商店街」として、赤線に興味がない人々をも魅了している人気スポットになっているのヨ。
今回はそんな昭和が残る「鳩の街」の歴史を紐解きながら、赤線時代の遺構であるカフェー建築を愛できた様子をお伝えするわネ!
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【戦後に発展したアプレ派の街】赤線「鳩の街」の歴史
はい、それでは「鳩の街」を散策していく前に、「鳩の街」の歴史、というか成り立ちについて簡単にみていきましょ!
冒頭でも書いたように、戦前の私娼窟「玉ノ井」が昭和20年(1945)3月10日の空襲で全焼し、後に「鳩の街」と呼ばれる寺島町1丁目(現・向島5丁目・東向島1丁目辺り)に業者が移動してきたのが始まり。
地理的にはだいたい南に1㎞ほどしか離れていないんだけど、この辺りは殆ど被災を免れた住宅街のうえ、疎開していて空き家になっている家も多かったの。そのため焼け出された「玉ノ井」の業者にとっては、打って付けの場所だったようね。
まぁとはいえ、元は私娼窟でもない一般的な住宅街。このあたりには焼け出された家族が何組も同居をしていて暮らしていたわ。そのため住人たちには立ち退き料として、大人1名につき200円・こども1名につき100円が支払われたそう。この金額は当時としては、大学出のサラリーマンの1ヶ月半ほどのお給料に相当したようね。
と、まぁそんなこんなで、昭和20年(1945)5月9日に、この地に5件の娼家が開業することになった。まだ戦争中なのに娼家を移転させるなんて、いつの時代も色を売るご商売は需要があるということね。
とはいえ開業したはいいものの、やはり近隣の人々からは当然ながら、私娼窟の設置にかなり反対の声もあったわよ。でも軍と厚生省の後援で建築資材を回してもらう予定も固まり、あれよあれよと娼家の数は増えていき、同年7月10日には業者40件、従業婦70名に達していたわ。
そして戦後になり、「鳩の街」は急速に発展していった。
昭和20年(1945)8月28日にRAA(特殊慰安施設協会)の指定を受け、進駐軍相手の慰安施設としてスタートした「鳩の街」。
「鳩の街」という名前はこの頃に付けられたみたい。一節には進駐軍達が「pigeonstreet」と呼んだことから、組合が正式に「鳩の街」を使用するようになったのではないかと言われているわ。ただこの名前の発案者は正式にはわかっていない。でも平和の象徴である「鳩」が使われているあたり、戦後に発展した街に相応しい名前よね。
その後、昭和21年(1946)3月10日に進駐軍当局はRAA所属の全ての慰安所に、進駐軍が立ち入ることを厳禁(オフ・リミット)とする命令が出される。
その後は昭和21年(1946)9月2日に米軍司令の警視庁通達により、娼家は壁や柱にタイルが施され、椅子やテーブルを置いたカフェー建築に改装。「鳩の街」は特殊飲食店として昭和33年(1959)4月1日の売春防止法の実施日まで赤線として営業していたわ。
全盛期の昭和30年(1955)頃は、娼家が108件、従業婦は329名ほどがいたそう。そして働いている女性たちも若く、見た目もとてもよかったのだとか。戦後という時代もあるのだろうけど、女学校出などのインテリ層も多く働いていたようね。
アプレ派(戦後派)の素人の女性が多かったこともあり、マスコミに取り上げられる機会も多く、客足を増やしていった。「原色の街」の吉行淳之介や「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いくために、永井荷風も「鳩の街」に足を運んでいるわ。それ以外にも多くの文化人や芸能人、スポーツ選手が「鳩の街」を訪れていたそう。
「鳩の街」が色街として機能していたのは、たった13年足らず。そんな短い期間で、著名人が通い文化の拠点となっていったのも興味深いわよネ。
【戦後に発展したアプレ派の街】赤線「鳩の街」の場所を確認しよう!
それでは「鳩の街」の歴史がわかったところで、続いては場所を確認していきましょ。
「鳩の街」は現在の住所で言うと、東武スカイツリーラインの曳舟駅から400mほど西に行った、向島5丁目・東向島1丁目辺りになるわ。(当時の住所だと寺島町1丁目)筆者が雑に加工した地図で赤く印したところが、現在の「鳩の街通り商店街」よ。赤線に指定されていたのは、このメインストリートから枝葉が別れる路地などが指定されていた模様。
再三「鳩の街」は「玉ノ井」の業者が移転してできたことをお伝えしているけど、「玉ノ井」の地形に若干似ているのも良かったようね。戦前の「玉ノ井」は永井荷風が『濹東綺譚』の中で”ラビラント(迷宮)”と評したように、とても入り組んでいた。その点で「鳩の街」も狭い路地が縦横無尽に入り組み、娼家にとっては理想的な地形だったのよ。
そしてこの立地も「鳩の街」が人気になった理由だと言われているわ。規模は小さかったものの、若く綺麗な女性が多い東京の中心から少し離れたこの土地は、息抜きに来る遊客には打って付けだったみたい。
当時は都電向島線が通っており、「鳩の街」の前には向島須崎町の停留所があったわ。赤線のこんな近くに都電の停留所があるなんて交通の便がよいわよね。
ちなみに「玉ノ井」の業者には「鳩の街」に移転せず、元の場所に程近い寺島町7丁目(現在の墨田3丁目の一部)に移転した者もいた。ただ「鳩の街」の繁栄があったため、「玉ノ井」は戦前に比べてかなり地味な存在になってしまったわ。かなり影響力のある業者達が「鳩の街」に移動した、ということも関係していたようね。
【戦後に発展したアプレ派の街】赤線「鳩の街」を歩く。【カフェー建築】
さぁ!それでは、いよいよ赤線の遺構を探しに「鳩の街」を歩いていきましょ〜☆
入口にはアーケードが立っているけど、わりとこじんまりとしているわ。見逃さないように注意してネ!
ちなみに吉行淳之介の「原色の街」では、「鳩の街」の様子を以下のように記しているわ。(※作中の中で「鳩の街」とは言及されていない、あくまでも「鳩の街」がモデルになってるだけ。)
それは、極くありふれた露地の入口である。しかし、大通りから足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。
細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型にまげられたネオン管のなかでは、赤いネオンがふるえている。洋風の家の入口には、ピンク色の布が垂れていて、その前に唇と爪の真赤な女が幾人も佇んでいる。
引用:吉行淳之介『原色の街』
【カフェー建築】赤線の痕跡を探して「鳩の街」を歩く。【カフェー建築】
現在の「鳩の街通り商店街」を入ると、いまでも古い建物が建ち並び昭和の薫りが充満している。とはいっても、数年前に比べても赤線の遺構はだいぶ減ってしまっているのが残念なのよね。
ちなみに余談ですが、女優の木の実ナナさんは、ここ「鳩の街」が出身地。(お父様がトランペット奏者、お母様が踊り子さんだったんだとか。)生家のアパートは商店街の中程にあったみたいね。筆者はこどもの頃、ナナさん主演の「万引きGメン・二階堂雪」で万引きGメンという仕事を知り、一寸アコガレたことがあったのよね・・・
な〜んて事を考えながら、赤線の痕跡「カフェー建築」をみていきましょ!
まずは当時の柱が現役のこちらのお宅。いまは民家してて使われているわ。
「鳩の街」は売春防止法が実施された後は、バーやスナックに鞍替えする家は少なかったみたい。ほとんどは店仕舞し民家として利用したり、町工場として使用していたそう。まぁ、いわば戦前の赤線になる前の街の姿に戻ったってことね。
いまは窓が取り付けられているものの、かってはコチラが入口だったのかしら?壁などはリノベーションしているものの、鮮やかな青い豆タイルが綺麗に残っており、大切に住まわれているのがわかるわよネ。
それにしても「鳩の街」の露地もうねうねしていて、どこか「玉ノ井」の風情を感じさせる。業者がこの地に移ってきたのも分かる気がするわ。
そんな露地を彷徨いながら、次の建物をみていきましょ。こちらは、現在ではアパートとして使われている建物。佇まいから赤線時代は、かなり規模の大きいお店だったのかしら?
渋めの茶色いタイルがイカす!いいなァ、このアパート住んでみたいわ。
かつてはコチラの柱にも、豆タイルが施されていたのかしら?赤線当時の姿を妄想しながら歩くと、街歩きはさらに楽しくなるのよネ。
そしてこのアパートの前にある建物も味があり素敵!
入口はリノベーションされているものの、張り出したバルコニー部分が当時の面影を残しているわ。
曲線が美しいバルコニー。
続いて、次のお宅も見ていきましょ。
といっても、何の写真かわけがわからない構図ですが、左側の建物は「鳩の街」でも結構有名な建物。綺麗にリノベーションされているものの、アーチ型の装飾や張り出したバルコニーは、赤線時代を感じさせる。
筆者は8月に訪問したこともあり、住民の方が窓やドアを開け放っていたため、控えめにお写真を撮らせていただいたわ。いくら「鳩の街」がカフェー建築のメッカと言っても、普通の民家を撮影させてもらっている筆者も失礼よね・・・・本当、住民の迷惑にならないように気をつけねば・・・
と、自戒を込めつつ次のお宅も見ていきましょ。
あら?こちらも赤線時代は何かやってた?綺麗にリノベーションされているものの、左側のファザードの付いた待合風建物がそれっぽい?
木村聡氏著「赤線跡を歩く」に、写真館を営業した時のコチラのお宅の写真が載っているのだけど、鞍替えなのだろうか?
筆者はこれといって赤線やカフェー建築の専門家でもないので、素人目から見ると全部当時の赤線遺構なのではないかと疑ってしまう。まだまだ修行がたりないわね・・・
まぁそれでも、「鳩の街」には古い建物や露地が多く、歩いているだけで楽しくなる。
なんて事を思いながら歩いていると、またまた素敵なお宅を発見。
控えめに残ったピンクのタイルが、とってもお洒落!
少し前までは有名な”THE・カフェー建築”の建物があったのだけど、今は取り壊されてしまったみたい。「鳩の街」も急速にスクラップ・アンド・ビルドが行われ、赤線の遺構はどんどん少なくなっている。これはカフェー建築とか関係なく、昭和建築ファンからすると寂しい限りなんだけど、実際に住まう人からすると、耐震性や機能性の問題で新しいお家の方がいいものね。
【赤線跡を歩く】昭和レトロな商店街「鳩の街商店街」
冒頭にも書いたけど、現在の「鳩の街通り商店街」は昭和レトロな町並みが残り、赤線に興味がない人々をも魅了している商店街。確かに昭和の雰囲気は絵になるものネ。
赤線の遺構ではなくとも、そんな古い建物を探索するのもとっても楽しい場所よ!
商店街を歩いていると、今でも現役の銅板建築を見ることができちゃうわ!昭和初期ごろの建物だと思うけど、いまでも大切に使われている事に感動しちゃう。
そんな銅板建築の中には、大人気の古民家カフェ「こぐま」さんも営業中。
「こぐま」さんでは、こんなに素晴らしい名物「焼きオムライス」がいただけちゃうわ♡他にも美味しそうなメニューが沢山あるので、「鳩の街」散策のお供にはオススメよ!
そしてこちらの雰囲気ある煙草屋さんも、いい味出しているわよネ。
懐かしの「でんわ・でんぽう」の昭和レトロ看板も健在!
今でも電報を使う方はどれぐらい居るのかしらね?筆者は電報というと「笑っていいとも」か冠婚葬祭しか思い浮かばないわ・・・いままで送ったことも送られたこともないケド。
そして「鳩の街」のランドマーク的存在「鈴木荘」も現役。住民募集の張り紙がしてあったけど、こんなイカしたレトロアパートに一寸住んでみたいわよね〜。(でも室外機が見当たらないため非冷房?なら無理そうね・・・)
コチラは少し前まで古民家カフェ「喫茶千輪」と営業していた建物。筆者も前々から行ってみたいと思っていたのだけど、残念ながら現在は臨時休業しているみたい・・・
古い”料理飲食等消費税 特別徴収義務者証票”のプレートが掛かっていた。元々は料理屋さん?待合だったのかしら?
こちらは現在「墨亭」という寄席になっている、元化粧品店の建物。化粧品のお店だっただけあって、瀟洒な外観じゃぁないの。
もし赤線時代もココが化粧品店だったなら、働いていた女性たちも買い物したのかしらね。この街で、美しく賢明に生きた女性たちの歴史に思いを馳せてみたりしちゃうわね・・・
【戦後に発展したアプレ派の街】歴史を感じながら赤線「鳩の街」を歩こう!
はい、今回は戦後に発展したアプレ派の赤線街「鳩の街」を歩いてきた様子をお伝えしたわ。
赤線遺構であるカフェー建築や、昭和の古い街が現存する「鳩の街」。売春防止法が実施されるまでの13年とい短い歴史の中で、多くの著名人をも魅了し文化を築いた理由が少し垣間見れた気がするわ。
皆様も当時の面影を感じながら、赤線時代の歴史に思いを馳せてみるのは如何かしら?
現在の「鳩の街」は多くの人々が暮らす場所です。住民の方の迷惑にならないように、ひっそり、静かに見学してしましょう!
【赤線遺構】「鳩の街通り商店街」の場所
〒131-0032 東京都墨田区向島5丁目50−13
東武スカイツリーライン曳舟駅 徒歩5分
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