あれは筆者が中学2年生のころだったかしら?国語の資料集に載っていた、太宰治の「生まれてすみません」の書と経歴を見たとたん、心臓を直接手で鷲掴みにされたような、いままで感じたことのない感覚に襲われた。
読書といえば、漫画かティーンズハート文庫(たまにコバルト文庫)ぐらいしか読んでこなかった筆者だったが、太宰の著書は夢中で読みふけった。しかもファースト太宰に選んだ作品が「人間失格」だったもんで、拗れに拗らせまくっている思春期の陰キャには、かなり刺さるものがあったのよね。
と、まぁ、自分語りをしてしまいましたが、筆者のような太宰ファンの聖地として崇められている地のひとつに東京都の三鷹があるわ。三鷹は昭和14年(1939)9月から、亡くなる昭和23年6月までの約9年間太宰が暮らした場所。
三鷹には太宰ゆかりのスポットが数々点在していて、なかでも「三鷹跨線橋」は太宰のお気に入りの場所として知られているの。当時の姿をのこす「三鷹跨線橋」は、太宰ファンだけでなく、昭和の建造物ファンの筆者としては、たまらないスポットだったりするのよね。
そんな「三鷹跨線橋」ですが、老朽化による取り壊しが決定されている。いつ取り壊されるかは、まだ未定なんだけど、近い将来その姿を見ることができなくなってしまうの。
と、いうことで、今のうちにその勇姿をカメラに収めるべく、久しぶりに「三鷹跨線橋」に行ってきた様子をレポートするわ。
※「生まれてすみません」は太宰の「二十世紀騎手」で使われている文言で、元々は詩人・寺内寿太郎の言葉だと言われています。
【太宰ゆかりの地】三鷹駅から徒歩7分・「三鷹跨線人道橋」【昭和遺産】
三鷹駅を出て線路沿いを下り方面(武蔵境駅側)に500m程歩いていくと、ヴィンテージ感の漂う跨線橋が見えてくるわ。それが太宰の愛した「三鷹跨線橋」よ。
正式名称は「三鷹跨線人道橋」らしい。
三鷹跨線橋が設置されたのは、昭和4年(1929)。太宰の聖地というだけでなく、重厚な作りの跨線橋は、昭和初期の建造物としても非常に価値がある。
南側の跨線橋の階段前には、”太宰ゆかりの場所”の案内板が立てられており、当時この場所で撮られた写真が載ってる。太宰が暮らしていたのが南側の地域(下連雀)だったため、こちらの階段を主に使っていたのだろう。
太宰は跨線橋がたいへんお気に入りで、「ちょっといいところがある」と言っては、三鷹に尋ねてきた友人たちをこの場所に案内していたんだそう。
ちなみに、三鷹にはこのように”太宰ゆかりの場所”の案内板がいくつか立っているので、看板を見つけながら散策すると楽しいわよ。
こちらは先程の裏側の階段。
JR東日本の八王子支社からこんな注意書きも掲示されている。先程も書いたようにこの跨線橋は昭和4年(1929)に建設されたもの。旧鉄道省がここに三鷹電車庫(現・三鷹車両センター)を開設するにあたり、人の往来を確保するために跨線橋を設置したという経緯があるわ。
現在はJR東日本が管理していて、建設から90年以上経ち老朽化の為に撤去が決定している。保存する方向に持っていきたかった三鷹市に無償譲渡を提案したものの、市でも改修には莫大な費用がかかること、回収しても見た目が変わってしまうことを理由に、受け入れは困難との判断がされたわ。
ちなみに、三鷹跨線橋が撤去されても近くに地下道があるため、人の往来ができなくなるわけではないのでご安心を。
階段を登ると見晴らしが素晴らしい。昔は柵上段の金網が付いていない部分もあったんだけど、転落防止のため現在はガッチリとガードが付けられている。まぁ危ないしね。
跨線橋が設置された経緯のとおり、今もここには「三鷹車両センター」がある。そのため、太宰ファン・昭和建築物ファン以外にも、鉄道ファンにも垂涎の撮影スポットとしても知られているわ。
あとは三鷹車両センターといえば、昭和の国鉄三大ミステリーの「三鷹事件」を思い出す人も多いと思うの。昭和の事件ファン(なんか言い方悪いな・・・)にとっても興味深いスポットよね。
ちなみに筆者はこれらのファンをそこそこコンプリートしているため、かなり垂涎のスポットだったりする。
たくさんの電車が眺められるため、ちびっこにも大人気のスポット。筆者が写真を撮っている時も、お母さんとちびっこが電車を眺めていたわ。
ちびっこが運転士さんに手をふると、警笛を鳴らしてくれることもあるみたい。これはちびっこ大喜びよネ。
そのほかにも三鷹跨線橋は、ロケーションが素晴らしいこともあり、映える撮影場所としても人気なよう。この日もモデル役とカメラマン役のナウなヤング男子2組が何かの撮影をしていたわ。
こちらは渡った先の北側の階段。車両センターの建物がないため、跨線橋の全貌をみる事ができる。そして何故かこっちだけ一部塗り直されている・・・
循環バスの停留所の名前が「跨線橋前」。地域の人々に親しまれているのが感じられるわね。
造形も素晴らしい三鷹跨線橋。
【明治・大正の痕跡も!】古レールが使われている!三鷹跨線橋
三鷹跨線橋は明治〜大正時代に使われていた古レールを使って作られてるの。そのため昭和以前の歴史も感じれれる貴重な建造物。当時は鉄が不足していたこともあり、古レールが使われたそう。
古レールの痕跡を見ながら、資材をみるのも興味深いかも。
太宰ゆかりの地というだけじゃなく、昭和ファンとしても三鷹跨線橋がなくなってしまうのは非常に寂しいわよね。
【三鷹跨線橋】一部保存に向けた動きも!
取り壊しが決定している三鷹跨線橋ですが、これだけ多くの人々に愛されていることもあり、JR東日本と三鷹市が連携し、橋の一部を移設保存する事が決まったみたい。
跨線橋を管理しているJR東日本が解体・撤去したあと、橋の一部を三鷹市が譲り受け、近隣に設置予定なんだとか。また三鷹市では映像や画像などで、記憶と記録を残す取り組みを行ってくと発表。跨線橋を歩いている様子を体験できるVRの構想なども予定しているんですって!
跨線橋がなくなってしまうのは本当に残念で悲しいことなんでけど、これはこれでちょっと楽しそうと思ってしまった・・・
今うちに三鷹跨線橋の勇姿を目に焼き付けておこう!
今回は解体が決定した「三鷹跨線橋」の現在の様子をお伝えしました。
太宰が愛した跨線橋としてだけでなく、昭和の歴史的建造物としても価値の高い三鷹跨線橋。安全性や費用を考えると保存が難しいのも分かるけど、撤去されてしまうのは非常に残念よね。
今のところ解体される日程は決まっていないけど、近い将来三鷹跨線橋の風景は見れなくなってしまうわ。是非皆様も三鷹跨線橋の勇姿を目に焼き付けるべく、三鷹を散策してみてはいかがでしょうか?
☆三鷹跨線橋の場所☆
〒181-0012 東京都三鷹市上連雀都三鷹市上連雀
三鷹に行ったらお墓参りも忘れずに!
最後に・・・跨線橋を見学したら、太宰のお墓参りも忘れずに!
三鷹にある禅林寺には太宰のお墓があります。
太宰の誕生日・そして玉川上水でご遺体が発見された、6月19日の桜桃日には沢山の太宰ファンが訪れます。(それ以外の日でもお参りできますよ!)
そして太宰のお墓の前には森鴎外のお墓もあり。鴎外の遺言で墓石には本名の森林太郎と記されています。鴎外の娘で、作家の森茉莉さんは一番左端のお墓に眠ってますよ!
三鷹へ来た際には文豪たちのお墓参りも忘れずに!
☆禅林寺場所☆
〒181-0013 東京都三鷹市下連雀4丁目18−20
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