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【私娼窟・赤線】荷風が愛したラビラント「玉ノ井」を歩く。【カフェー建築】

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【私娼窟・赤線】荷風が愛したラビラント「玉ノ井」を歩く。【カフェー建築】 墨田区
【私娼窟・赤線】荷風が愛したラビラント「玉ノ井」を歩く。【カフェー建築】
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昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
東武スカイツリーライン東向島駅。(旧玉ノ井)と記載されている。

東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の東向島駅、ここはかつて墨田川の東岸「玉ノ井」と呼ばれた場所。そうです、永井荷風の『濹東綺譚』の舞台となり、”ラビラント(迷宮)”と称された、あの私娼窟「玉ノ井」です。

といっても、「濹東綺譚」の舞台となった戦前の私娼窟「玉ノ井」は、昭和20年(1945)3月10日の空襲で全焼していて、残念ながら当時の遺構は残っていないわ。

ただ、戦後の「玉の井」は場所を移し、赤線地帯として昭和33年(1958)4月1日の売春防止法実施日まで営業を続けていたの。その場所には、今でも赤線の名残であるカフェー建築がチョコチョコ残っていて、結構人気のスポットになっているのよね。

今回はそんな戦後の新生「玉ノ井」の赤線カフェー街を歩こうじゃないか・・・・と、思っていたんだけど、それだけじゃあ満足できないわよ、誰のお陰で「玉ノ井」という場所があることを知った?そう荷風先生のおかげでしょ?「玉ノ井」を語るうえで『濹東綺譚』なしじゃあ味気ないわよ!!

ということで、今回は特に遺構はないもの、『濹東綺譚』の舞台となった戦前の「玉ノ井」と、戦後の赤線カフェー街の新生「玉ノ井」の両方を、ぶらぶらと歩いてきた様子をお伝えするわ☆

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【荷風の愛したラビラント】戦前『濹東綺譚』の舞台と戦後の赤線カフェー街・「玉ノ井」の位置を確認しよう!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

はい、ではまずは戦前・戦後の「玉ノ井」を歩くため、それぞれの場所を確認しておきましょ。

冒頭でも書いたように、「玉ノ井」は昭和20年(1945)3月10日の空襲で全焼したため、戦後になって場所を変えているわ。

筆者の雑に加工した地図で申し訳ないんだけど、戦前の「玉ノ井」は大正道路(いろは通り)より南側。その中でも『濹東綺譚』の舞台となったのは大正道路(いろは通り)と改正道路(現・水戸街道)に挟まれた、1部・2部・3部と呼ばれた区域。(改正道路を超えた4部と5部は『濹東綺譚』に出て来ないので、今回は歩かずにスルーするわ。)

戦後の新生「玉ノ井」は大正道路(いろは通り)より北側になっていて、こちらが今でもカフェー建築が残る赤線当時の遺構が見れる地域ね。カフェー建築が見たいって人が多いと思うんだけど、間違えて戦前「玉ノ井」の方に行っちゃうと見ることが出来ないので注意してネ。

【荷風の愛したラビラント】「玉ノ井」の歴史。【戦後赤線カフェー街】

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
凌雲閣(浅草十二階)の模型。(撮影:江戸東京博物館)
凌雲閣は当時日本で一番高い建物で、日本初のエレベーターも設置されていた。

では場所がわかったところで、続いては「玉ノ井」の歴史、というか成り立ちを少し見ていきましょ!

まず覚えておいてほしいのが、戦前「玉ノ井」は「吉原」のような公娼の遊廓ではなく、あくまでも私娼窟として発展した場所。

そもそも何で墨東の地「玉ノ井」に私娼窟ができたかというと、それには大正12年(1923)の関東大震災が大きく関わっているの。

当時浅草の六区から道を挟んだ辺りに、凌雲閣(通称浅草十二階)という日本一高い建物があったわ。その凌雲閣の麓には多くの銘酒屋があったのだけど、関東大震災で凌雲閣が崩壊し、麓にあった銘酒屋も被災したわ。

あ、ちなみに銘酒屋とは、居酒屋の業態を取ってはいるものの、密かに私娼を抱えて商売しているお店のことネ。

関東大震災で被災した凌雲閣下の主力銘酒屋が、次々に玉ノ井に移住してきた事で私娼窟「玉ノ井」が出来上がったの。「玉ノ井」に押し寄せた銘酒屋が、道路が整備される前に無秩序に建物を建てていったため、荷風先生が評した”ラビラント(迷宮)”のような入り組んだ「玉ノ井」が出来上がっていったってわけ。

でもまぁその前から、追い立てを食らった銘酒屋が数件この付近に移って来ていて、それが呼び水になり、関東大震災後の移転に繋がつていったようネ。

ちなみに「玉ノ井」の歴史については、荷風先生も『濹東綺譚』の中で以下のように記しているわ。

浅草の旧地では凌雲閣の裏手から公園の北側千束町の路地にあったものが、手を尽くして居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のため中絶し、一時悉くこの方面へ逃げて来た。市街再建の後西見番と称する芸者組合をつくり転業したものもあったが、この土地はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状態を呈するに至った。

引用:永井荷風『濹東綺譚』より
昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
昭和39年(1964)頃の玉ノ井駅舎。撮影:東武博物館 
当時はまだ東武電車は地上を走っていたが、昭和42年に高架化

そして「玉ノ井」という名前なんだけど、これは元々旧東京府南葛飾郡寺島村にあった一小字だったの。その後大正12年(1923)に寺島村が町制を施行して寺島町になり、昭和5年(1930)に小字を廃し、新たに大字を設置。

そして昭和7年(1932)には市町村合併により、東京市向島区寺島町になり「玉ノ井」という地名は正式には使われなくなったわ。

ただその後も東武伊勢崎線の駅名は「玉ノ井駅」だったんだけど、それも昭和62(1987)に「東向島駅」と改名されてしまい、正式な場での「玉ノ井」という地名は見ることができなくなってしまったの。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
筆者が所持する昭和26年の区分地図。当時の町名である「寺島」や、「玉ノ井」の駅名が見ることができる。

地名の遍歴としては、昭和22年(1947)に東京都墨田区寺島町、昭和40年(1965)3月1日の第二次地区変更で、東京都墨田区東向島・墨田と変わっているわ。

戦前の「玉ノ井」は旧住所だと寺島町5丁目・6丁目(現・東向島5丁目・6丁目の一部)。戦後赤線「玉ノ井」は寺島町7丁目(現在の墨田3丁目の一部)になるわね。

【荷風の愛したラビラント】戦前の私娼窟「玉ノ井」を歩く。」

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
「大正道路」現在では「いろは通り」と呼ばれる。

「玉ノ井」の場所と歴史がわかったところで、いよいよ荷風先生の面影を探しに、『濹東綺譚』の舞台である戦前の「玉ノ井」を見て行きましょう☆

まずは東向島駅から200m程東武線の高架に沿って進み、大正道路(いろは通り)へと向かいます。

ちなみにこの大正道路は、大正初期に大正天皇御即位記念事業の一環として、白鬚橋から寺島村方面に出るために造られた道路。この道路が造られたことで交通の便が良くなり、この辺りに民家がポツポツと造られるようになったんですって。「玉ノ井」を歩く上でかなり重要な道路になっているわネ。

「満願稲荷」で荷風先生直筆の「玉ノ井」地図を見よう!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
「満願稲荷」の入口。マンションの路地になっていて、非常に分かりづらい!!

『濹東綺譚』の舞台を歩く前に、一寸脇道にそれ「満願稲荷」へ足を運んでおきましょう。

「満願稲荷」には荷風先生の直筆で書かれた「濹東綺譚地図」の看板が掲示してあるので、「玉ノ井」散策をする上で必ず見ておきたいもの。

ただこの「満願稲荷」、現在ではマンションの一部に入っているため、かなり場所が分かりづらいので注意が必要よ!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

迷いながらなんとか「満願稲荷」へ到着!かなりこじんまりとした神社なんだけど、ここは「玉ノ井」の投げ込み寺と呼ばれ、水子供養などを行っていたよう。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

はい、そして荷風先生直筆の「寺じま記」の一節と、濹東綺譚地図を発見!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

詳細に書かれた濹東綺譚地図は、荷風先生が『濹東綺譚』を書くために、昭和11年(1936)に8ヶ月ががりでくまなく歩き回り書き上げたもの。

”ラビラント(迷宮)”のような入り組んだ路地や、じめじめとしたドブが細かく記されていて、当時の様子が目に浮かぶようネ!

そしてかつて存在し、作中にも出てくる京成電気鉄道白鬚線の線路跡も表記されているので、廃線地図としても貴重な存在なのよね。

※京成電気鉄道白鬚線は昭和3年(1928)に引かれ、昭和11年(1936)に廃線となった鉄道路線。『濹東綺譚』作中では、廃線になったばかりの白鬚線の描写が出てくる。

『濹東綺譚』の舞台・「玉ノ井」を歩く。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

荷風先生直筆の「玉ノ井」の地図を確認したら、いよいよ『濹東綺譚』の舞台を歩くため再び大正道路(いろは通り)に戻ってまいりました。

まずは作中に出てくる、お雪さんの家があったと思われる場所を確かめに行きましょ!お雪さんの家へ向かうには、大正道路(いろは通り)から脇道に入るわよ。

『濹東綺譚』の作中で、お雪さんの家は以下のうように記されているわ。

その家は大正道路から唯ある路地に入り、汚れた幟の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、なお深く入り込んだ処にあるので、表通りのラディオや蓄音機の響きも素見客の足音に消されてよくは聞こえない。

引用:永井荷風『濹東綺譚』より

写真の右側の建物が、当時伏見稲荷があった場所だと言われているみたい。

ちなみに大正道路(いろは通り)には、戦後に建てられた昭和建築の商店が建ち並び、かなりレトロな商店街になっているわ。戦前も今のように沢山の商店が立ち並んでいて、私娼窟の中は見えないようになっていたんですって。大正道路(いろは通り)をはじめ私娼窟のアウトラインには、『濹東綺譚』に登場する、”ぬけられます”の看板が沢山掲げられていたのだとか。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

『濹東綺譚』に登場するお雪さんの住所は”寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子”

先程の路地を進んだこの辺りが、当時の住所付近だと思われる場所。当然ながらいまでは全く新しい住宅が建ち、当時の私娼窟「玉ノ井」の姿とは変わっているわ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

とはいえ、この辺りの入り組んだ路地の”ラビラント(迷宮)”は今でも健在。

こうして路地に佇んでいると、木造家屋の30㎝程度の小窓からお姉さん達が顔を覗かせ、客引きをする姿や、雨が降ると溢れ返る溝川の様子など、『濹東綺譚』の風景が脳裏に浮かぶようだわ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

そしてお雪さんの家を後にして、続いてやってきたのは、当時「賑い本通り」と呼ばれた場所。

この「賑い本通り」は、わたくしとお雪さんが初めて出会った場所よ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

地図場で緑線のところが「賑い本通り」。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

「賑い本通り」のこの付近が、わたくしとお雪さんが出会った”郵便箱の立っている路地口の煙草屋”付近だと言われているわ。

突然の雨にわたくしの傘に入り込んだお雪さん。入り組んだラビラントを通り、ふたりは”寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子”のお雪さんの家まで移動するのね。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
ギャラリーの店先に飾られた昭和13年・14年の貴重な写真。

あ、そうそう、「賑い本通り」にある「かえるのトンネル」というギャラリーの店先に、昭和14年の賑い本通りと昭和13年に写した玉ノ井町会役員のお写真が飾ってあったわ。

『濹東綺譚』が書かれた昭和11年(1936)と近い時代の写真のため、なんとも興味深いわよネ。

昭和の面影が残る、「玉ノ井」の町並み。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

『濹東綺譚』関連の場所じゃあないいんだけど、戦後「玉ノ井」の付近をウロウロしていると、新しい住宅の中にぽつぽつと戦後に建てられたであろう建築が目に留まるわ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

廃墟になった建物。立派な入口で、何かご商売をされていたのだろうか??

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

そして廃墟の隣にある「虎TORA東向島」という居酒屋さん。ポケモン達が詰め込まれたショウケースが哀愁を誘う・・・

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

そしてこちらは改正道路(現・水戸街道)沿いにあった、超絶格好いい写真館。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

かなり古そうな建物は、嫌でも目にとまる格好良さ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

かつて「玉ノ井」の1・2・3部と4・5部を隔てていた改正道路(現・水戸街道)は、現在ではスカイツリーが見渡せるビュースポットとなっているわ。

ちなみに4部5部は、「玉ノ井」全体から見ると少し場末感があったみたいね。

【赤線の痕跡】戦後の「玉ノ井」でカフェー建築を探す。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」
大正道路からもスカイツリーが望める

はい、再び大正道路(いろは通り)に戻ってきました。『濹東綺譚』の舞台である戦前の「玉ノ井」をぶらぶらした後は、いよいよカフェー建築が残る戦後の赤線跡を歩いていきましょ!

再三記しているように、昭和20年(1945)3月10日の空襲で「玉ノ井」は全焼。火災は大正道路(いろは通り)で食い止まり、焼失を免れた寺島町7丁目(現在の墨田3丁目の一部)で新生「玉ノ井」として営業をすることとなるわ。

初めのうちは焼け残った住宅を応急的にそのまま使っていたのだけど、昭和21(1946)9月2日に、米軍司令の警視庁通達により、強制的に表面はガラス張りにして、椅子やテーブルを置いたカフェー建築に改装されたわ。名称も特殊飲食店となり、娼婦を従業婦と改め、赤線として昭和33年(1958)の売春防止法の実施日まで営業を続けたの。カフェー建築に改さめせたのは、一般のお宅と区別する意味があるのよ。

まれに「玉ノ井は赤線じゃないから〜」的な意見を見るんだけど、「玉ノ井」は特殊飲食店として営業していたので、赤線でOKよ。おそらく戦前が私娼窟だったため、一般の飲食店の営業許可のまま、非合法な営業していた戦後の青線と混同されているのかも知れないわ。

戦後の赤線跡・「玉ノ井」のカフェー建築を愛でる。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

さぁ!それでは早速、赤線跡に残るカフェー建築を愛でていきましょ!

まずは「玉ノ井」で一番有名であろう、こちらのカフェー建築。今は住宅として利用されているわ。

ちなみに、赤線となった「玉ノ井」では、120件ほどのお店が営業していたの。被災した業者は「玉ノ井」から1㎞ほど離れた「鳩の街」に移転した者も多く、戦前の規模からは6分の1程度に縮小されてしまったわ。そのため赤線時代の「玉ノ井」は、かなり地味な存在になってしまったみたいね。

\⬇「鳩の街」についてはこちらをどーぞ!⬇/

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

まぁ、地味な存在だったとはいえ、かなりパンチの効いたカフェー建築を愛でることができるわよ。

特徴的な窓枠の装飾が、モダンでとっても素敵!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

張り出したバルコニーのアーチが、如何にもなカフェー建築じゃない!?

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

赤線時代は柱に豆タイルの装飾がされていたのだろうか?

それにしても、とても保存状態が良く、令和の今でも大切に住まわれているのがわかるわネ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

戦前を知る人からは、赤線時代の「玉ノ井」は”ラビラント(迷宮)”と称される路地も少なく、どこか殺風景で、色街の情緒をあまり感じないといった声も多かったよう。

とは言え、現代の感覚だと充分路地が多く、昭和の雰囲気満点の”ラビラント(迷宮)”に迷い込んだ感覚に陥るわ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

はい、ではそんな現代の迷宮を彷徨いながら、続いてはコチラのお宅をみていきましょ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

控えめに施された緑の豆タイルが、なんとも可愛らしい。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

そして続いてはコチラのお宅。

おお〜っ!!なんとも如何にもなカフェー建築なのかしらん♡

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

柱には豆タイルがあしらわれていた痕跡が見て取れる。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

上から塗装されていた部分が禿て、赤線時代の痕跡をちらりと覗くこともできるわ。

青っぽい豆タイルが施されていたのかしら?当時の姿も気になるわよね。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

続いてはコチラのお宅をみていきましょ。

借家に出されているようで、ドアにはロックがかかりポストにはテープが貼られていたわ。カフェー建築に住まうなんて一度経験してみたい!!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

張り出した柱が素敵!こちらも赤線当時は、豆タイルで装飾されていたのかしら?

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

「玉ノ井」は売春防止法実施以来、完全な住宅街へと姿を変えたわ。業者の中には売春防止法実施後に、一旦は通常のバーやスナック、小料理屋に転業した所も多かったみたいなんだけど、赤線時代とは営業利益なども違い、経営が難しく廃業する所が多かったみたい。

まぁ〜歴史や立地の観点からも、吉原や新宿二丁目のようにはなれないわよね・・・

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

なんて事を考えながら、次の建物にいきましょ。

いや〜それにしても戦後の「玉ノ井」は、規模が小さかったとはいえ、売春防止法の実施から60年以上経った今でも、当時の建物が現役で残っているのは凄いわよね!

まぁそれもこれも住宅街に姿を変えたおかげかも。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

とか何とか考えながら更に路地へと進む・・・

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

と!「玉ノ井」で結構有名なカフェー建築がお目見え!

今は「モードの悲劇」なるアパレルショップになっているみたい。古今東西、風俗と芸術というのは相性が良かったりするのね。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

壁やタイルの目地が綺麗に直されていて、まるで赤線時代の風景が蘇るよう。

やはり豆タイルがしっかり残った状態のカフェー建築を見ると、なんだかグッとくるのよネ〜!

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

ちなみに、筆者が伺った時はお店は営業していなかったわ・・・

オシャレアパレルに滅法疎い筆者だけど、是非開いていたら中に入ってみたかったのに〜!!(店主からしたら迷惑かも)

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

はい、営業していなかったのは残念ですが、気を取り直して次へいきましょ。

こちらの建物はアパートとして使われているのかしら?

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

橙色の壁とアーチの庇が印象的!

戦前の「玉ノ井」では1件の娼家に1〜2人の私娼しか置けなかったんだけど(『濹東綺譚』の中でも、わたくしがお雪さんと初めて会った時はお雪さん一人だった)、戦後はそういった制約もなくなり、資力がある限りは何人もの娼婦を雇うことができたみたい。

アパートに転業しているような大きさの建物は、相当資力があったんじゃないかと妄想しちゃうわ。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

こちらはエステ店の建物。カーブのバルコニーと入口の傾斜が素敵!シャッター部分は当時はガラス張りだった??

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

こちらの建物も赤線時代は何かやっていたのかしら?

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

なにぶん筆者はカフェー建築や赤線の専門家でもないため、古い建物が全て赤線の名残だと感じてしまう。いやぁ、まだまだ研究が足りないし奥深いものネ・・・

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

戦前は借金などがあり仲介業者通じてこの世界に入る女性が多かったけど、戦後という時代もあるのだろう、赤線時代は店先に「女給さん募集」の張り紙を貼れば女性たちが自ら集まってきたそう。

女性が選択できる仕事が少なく、食べるため・豊かな生活をするために、自らこの仕事に付かざるを得なかった背景を考えると、同じ女性として少し切ない気分になる。それでも、家族のため・自分のために、逞しく生きた彼女たちは美しく、忘れてはいけない歴史だと思うの。

赤線の名残?「玉ノ井」の名前と旧地名「寺島町」

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

初めの方でも記したけど、現在「玉ノ井」という地名は存在しない。

ただ、この辺りは現在でも「玉ノ井」という名称を使っている事が多く、町会も「玉ノ井町会」の名で運営しているみたい。

今でも住民により「玉ノ井」という名前が引き継がれているのを見ると、住民の方々の「玉ノ井」への誇りを感じざるを得ないわよね。元々赤線だった場所などは昔の名前を捨てる所も多々あるので・・・

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

そして大正道路(いろは通り)では、人気のカフェ「玉ノ井カフェ」さんも営業中。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

「玉ノ井カフェ」さんでは、こんなにオシャレなクリームソーダもいただけちゃうの♡

ちなみに「玉ノ井カフェ」さんは2022年に一度閉店するも、2023年6月から別のオーナーが、店名を残したまま再び営業を開始したのよ!

いやぁ〜、新オーナー!「玉ノ井」の名前を残すなんて、なかなか粋な図らいじゃあないの。

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

あ、そうそう、電柱には旧地名の「寺島」の名が!電柱ってなぜか昔の地名のまま表記されることあるわよね。

【荷風の愛したラビラント】戦前『濹東綺譚』の舞台と戦後の赤線カフェー街の「玉ノ井」を歩こう♬

昭和レトロ研究所 私娼窟・赤線 「玉ノ井」

はい、今回は永井荷風の『濹東綺譚』の舞台となった戦前の「玉ノ井」と、赤線カフェー街となった戦後の新生「玉ノ井」を歩いてきた様子をお伝えしたわ。

戦前・戦後の歴史を感じることのできる「玉ノ井」は、見どころも多く魅力的な場所。カフェー建築を写真に収めるため、戦後の赤線「玉ノ井」を歩く方は多いようなんだけど、筆者としては、ぜひとも歴史を感じながら戦前の「玉ノ井」も併せて歩いてほしいわ。

戦前・戦後、そして現在と、多くの歴史と魅力が詰まった「玉ノ井」、ぜひ皆様も一度お散歩してみてはいかがかしら?

現在の「玉ノ井」は住宅街で多くの人々が暮らす場所です。住民の方の迷惑にならないように、ひっそり、静かに見学してしましょう!

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